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東京地方裁判所 平成8年(ワ)1680号 判決 1996年12月27日

主文

一  被告は、原告に対し、一一五万円及びこれに対する平成八年二月一〇日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、被告の負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

理由

【事実及び理由】

第一  請求

被告は、原告に対し、一一五万円及びこれに対する平成七年二月一六日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

一  事案の要旨

本件は、原告が、その預金通帳を盗まれ、右預金通帳等が使用されて、被告から原告の預金の払戻し及び原告に対する貸越しがされたが、右の払戻し及び貸越しは被告の担当者に過失がなかったとはいえず、効力がないとして、被告に対し、右預金四八万二四二七円の払戻し及び貸越し六六万七五七三円の合計一一五万円及びこれに対する払戻し及び貸越しの請求をした日の翌日である平成七年二月一六日から支払済みまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。

二  争いのない事実

1 原告は、被告加須支店との間で、かねてから預金・貸越し等の取引を行う総合口座取引を行い(口座の番号《略》、以下同口座を「本件口座」という。)、平成七年二月一五日当時、本件口座に預金残高四八万二四二七円を有していた。

2 同日午前一一時二八分ころ、被告は、氏名不詳者に対し、本件口座から預金四八万二四二七円の払戻し及び原告の定期預金を担保とする六六万七五七三円の貸越し(以下「本件払戻し等」という。)を行った。

3 同日午後五時ころ、原告の妻泉野花子(以下「花子」という。)は、本件口座の預金通帳を盗難されたことを被告加須支店に連絡した。

三  当事者の主張

(被告の主張)

1 本件払戻し等を行った氏名不詳者は、四〇代の男性で、本件預金通帳を持参し、預金者本人になりすまして、泉野印をあらかじめ押捺した被告所定の払戻請求書を窓口に提出しており、特に挙動不審な点はなく、また、本件払戻し等は、引出し可能な預金残高及び貸越限度額の範囲内の金額であり、何ら不審を抱かせる状況はなかった。

2 仮に払戻請求書に押捺された印影が原告届出の銀行印によって押捺されたものではなかったとしても、払戻請求書の印影と届出印の印影(以下「副印鑑」という。)を対比すれば、右の両印影は酷似しており、細部の相違は肉眼では相当熟視しなければ発見し難く、かつ、右相違は、朱肉の多寡、押捺の仕方や紙質の違い等によって生じ得る程度のものにすぎない。

本件払戻し等を担当した乙山春子(以下「乙山」という。)は、約一一年間預金の窓口業務として印鑑照合事務に携わっており、過去に事故にあったこともなく、その事務に習熟していた。

被告加須支店の窓口業務では、一日一〇〇件以上に及ぶ大量の印鑑照合を処理しており、本件当日も開店から午前一一時二八分までに既に四五件もの窓口業務を取り扱っており、本件も右業務の一つとして相当の注意を用いて対照に努めたものであり、格別ぞんざいな取扱いをしたものではないが、それでも、両印影が酷似していたので、その相違を発見し得なかったにすぎない。

払戻請求書の印影に用いられた朱肉と副印鑑の朱肉は異なるが、被告のみならず他行においても、銀行店頭備付の朱肉を用いた押捺でなければ受付できないというシステムで営業をしてはいない。顧客の事情で持出しできない印章もあり、払戻請求書の用紙をあらかじめ銀行から持ち帰り、顧客先において押捺してくることもある。

(原告の主張)

払戻請求書に押捺された印影は、副印鑑と明らかに異なっており、これを同一印章による印影と判断した被告の担当者には過失がある。

四  争点

本件払戻し等において、被告の担当者が払戻請求書に使用された印影を届出の副印鑑と照合した際に過失がなかったといえるか(準占有者に対する弁済として有効か、免責条項が適用されるか。)。

第三  争点に対する判断

一  事実関係について

前記争いのない事実、《証拠略》によれば、次の事実が認められる。

1 原告は、平成七年二月一五日当時、被告加須支店に本件口座を有し、預金残高は四八万二四二七円であった。

2 同日午前八時五〇分ころ、何者かが原告方に侵入し、原告及び花子所有の実印等の印章四個及び本件通帳を窃取した。ただし、本件通帳の届出印の印章については、花子が所持して外出していたため、盗難を免れた。

3 同日午前一一時二八分ころ、四〇歳くらいの氏名不詳の男性が被告加須支店に本件通帳及び原告の「泉野」の印影が押捺された払戻請求書を持参し、右預金四八万二四二七円の払戻請求及び六六万七五七三円の貸越請求を行った。なお、右貸越請求金額は原告の定期預金を担保とした貸越限度額の範囲内のものであった。

4 乙山は、被告加須支店に約一一年間勤務して窓口業務に従事し、印鑑照合を行ってきた。乙山は、印鑑照合をする際には、払戻請求書に押捺された印影と副印鑑について、その大きさ、字体等を対比するいわゆる平面照合を行い、右照合により、同一性に疑義がある場合には、折り重ね照合等を行い、それでも不十分と考えるときは、他の職員に見てもらう等していた。

5 乙山は、本払戻請求書に押捺された印影と副印鑑を平面照合した結果、ほぼ即座に、右両印影は同一の印章による印影であると判断し、一一五万円の払戻し及び貸越しを行った。

6 本件払戻請求書に押捺された印影と副印鑑を比較対照した場合、右の印影は、「泉」の文字のうち、「水」の縦棒部分の長さが短く、右の「払い」部分が太いなど、印影に相違があり、右の相違は、同一印章によりながら、印章の使い込み方による印章自体の変化、朱肉の種類ないしその付き具合、押捺の仕方及び紙質の違いなどから生じたとは認め難く、同一の印章により押捺されたものではない。

7 被告の総合口座取引には、「この取引において払戻請求書、諸届その他の書類に使用された印影を届出の印鑑と相当の注意をもって照合し、相違ないものと認めて取扱いましたうえは、それらの書類につき偽造、変造その他の事故があってもそのために生じた損害については、当行は責任を負いません。」との条項がある(一部を省略したほかは原文のまま。以下「本件免責条項」という。)。

二  本件免責条項及び債権の準占有者に対する弁済の意義について

本件免責条項にいう、銀行が払戻請求書に使用された印影と届出の副印鑑とを相当の注意をもって照合して相違ないものと認めて取り扱った場合とは、民法四七八条の定める債権の準占有者に対する弁済の一場合を定めたものであり、債権の準占有者に対する弁済と同様、銀行が払戻請求を行った者が預金者であると信じたことに過失がなかったことを要するものと解すべきである。

そして、銀行の印鑑照合を担当する者が、払戻請求書に使用された印影と届出の副印鑑を照合するにあたっては、特段の事情のない限り、折り重ねによる照合や拡大鏡による照合までの必要はなく、肉眼による平面照合の方法をもってすれば足りるにしても、銀行の印鑑照合を担当する者に対して社会通念上一般に期待されている業務上相当の注意をもって慎重に照合を行うことを要し、そのような事務に習熟している銀行員が右のような相当の注意を払って照合するならば肉眼をもって発見し得るような印影の相違が看過されたときは、銀行には過失があり、本件免責条項の適用も、民法四七八条の適用もないものというべきである。

三  これを本件についてみるに、本件払戻し等においては、前記判示事実によれば、本件払戻し等の際に不審感を抱かせるような具体的な状況はなかったのであるから、折り重ね照合等を要求すべき特段の事情は存せず、平面照合により印影の一致を確認すれば足りるものというべきではあるが、払戻請求書の印影の方が副印鑑よりも「泉」の第六画目、すなわち、「水」の縦棒部分が長く、同じく第九画目、すなわち、「水」の右側の「払い」部分が太いことは一見してほぼ明らかであるところ、右の相違は、同一印章によりながら、印章の使い込み方による印章自体の変化、朱肉の種類ないしその付き具合、押捺の仕方及び紙質の違いなどから生じたとは認め難く、右の相違は、印鑑照合事務に習熟している銀行員が相当の注意を払って平面照合をするならば、肉眼をもって発見し得るものであったということができる。また、仮に、被告の担当者である乙山が右の相違が同一印章によりながら朱肉の種類ないしその付き具合や押捺の仕方などから生じたものと見たとしても、少なくとも払戻請求書の印影と副印鑑とが相違していることに変わりはなかったのであるから、払戻請求をした者に改めて押捺を求めることは可能であり(副印鑑と異なった印影を払戻請求書に押捺した者はこれを拒絶することができないものというべきである。)、改めて押捺を求めていれば、払戻請求書の印影と副印鑑との非同一性が印章自体の非同一性によるものであることが容易に判明したであろう(なお、このほか、乙山が右のような慎重な行為に出ていれば、払戻請求をした者の挙措に不審な状況が現出したかもしれない。)。

したがって、本件印鑑照合を担当した乙山は、平面照合によって右印影の相違に気付き、他のより慎重な照合方法によって照合すべきであったのであり、乙山には過失があったというべきである。

被告は、印鑑照合の担当者は一日に一〇〇件以上にも及ぶ大量の印鑑照合を処理しており、現に、本件でもそのような繁忙の最中の出来事であることを理由に、注意義務の軽減を主張するが、預金払戻しという預金者の権利の得喪に関する重要な取引の局面においては、事務の繁忙を根拠にして注意義務の軽減を肯定することは相当ではなく、被告の右主張は採用することができない。

四  以上のとおり、本件払戻し等は、その効力を生ずるに由なく、本件預金四八万二四二七円及び貸越し六六万七五七三円の合計一一五万円及びこれに対する訴状送達日の翌日である平成八年二月一〇日から支払済みまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払を求める原告の請求は理由がある。なお、原告は、平成七年二月一五日に払戻し及び貸越しの請求を行ったと主張するが、右主張は証拠上認められないから、右請求の翌日である同年二月一六日からの請求は理由がない。

(裁判長裁判官 塚原朋一 裁判官 村越一浩 裁判官 沢田忠之)

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